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何度も読んでる”はず”なのに・・

人の記憶ってほんと、無常。
流れるように、入れたら出て行くんですね。
いえいえ、復習ですよ、復習(笑)
数箇所経由してたどり着きました、それぞれの方に感謝奉り。

ハッピー・ナッツさんの2010年3月の記事から拝借しました。


日本列島の歴史自体はけっこう古く、現在の形がほぼできあがったのは、今からおよそ三万年ぐらい前のことでした。

日本の文化程度が急速に高まってきたのは、約一万五千年ほど前に、ムー大陸が沈下し、ムーの住民のなかの約数百人が、海路現在の九州地方に上陸したとき以来です。
日本の先住民族の人たちから見ると、近代的な科学の原理に通じていたムーの人々は、まさしく神の降臨に近かったと言えます。

そして、この頃の伝承が、後の日本の神話の土台となったのです。

さて、現在に至る日本文化の最初の土台をつくったのは、今からほぼ二千八百年ほど前に地上に降りた高級霊たちでした。

紀元前八百三十年頃、まず、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)が、現在の九州は高千穂峰に出生。八次元最上段階の如来が、日本の国づくりのために肉体を持ったのです。

これは、釈迦出誕の二百年前、孔子生誕の三百年前、ソクラテス降下の三百数十年前のことでした。



天御中主命は、現在の宮崎県を中心とした南九州に、一大勢力圏を築いた政治家であり、しかも、宗教家でもありました。

もちろん、彼以前にも、国王的な方たちはおりましたし、それは、連綿と続いてはいたのですが、神の言葉を伝える者が国を治めるという姿勢をはっきりと打ち出したのは、天御中主命からなのです。

その意味において、天御中主命は、日本の宗教的中心であり政治的にも中心であることが多かった天皇の草分け的存在だったと言えるでしょう。



天御中主命は、巨大な霊能者でもあり、とくに、ひとたび彼が口を開いて発した言葉は、必ず成就することで有名でした。

ですから、誰もが、その神秘力に打たれたのです。



御中主の考えは、いわゆる光一元の思想であり、「善のみ真理、光のみ真理」と常々断言し、その言葉の創化力によって、実際にそのとおりの光明の世界が周りに出現しました。



御中主がつくった南九州政府は、高千穂国と呼ばれていました。

ここの第二代の国王に選ばれたのが、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)です。

このときの権限委譲は、父子相続ではありませんでした。いわゆる禅譲に近かったと言えます。

すなわち、御中主の臣下のなかで、最も霊能力に優れ、徳の高かった高御産巣日命に位がゆずられたのです。



そして、次に出て来た三代目の国王が、神産巣日神(かむむすひのかみ)です。

この方も、霊言能力に優れており、すでに、ひと足早く霊天上界に還った天御中主命から直接通信を受けて、国政の指針としておりました。

紀元前七六五年、現在の大分県のあたりに伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が生まれました。

彼は、二四歳のときに、伊邪那美命(いざなみのみこと)と知り合い、結婚をします。

そして、この二人の正常な夫婦の営みの結果生まれたのが、後に天照大神(あまてらすおおみかみ)と呼ばれる女性です。

その二歳下の弟として生まれたのが、須佐之男命(すさのおのみこと)です。

天照大神は、母の伊邪那美によく似て、とても穏やかで、おとなしい性格でしたが、それに反して、須佐之男命は、たいへん荒々しい性格を持っておりました。

天照大神は、日本神道系では、最高神、あるいは、主宰神のように言われております。

というのは、天照大神は、女性でありながらも、初めての女帝の地位、すなわち、高千穂国の女王となったことに起因しているのです。

天御中主命から数えて五代目ぐらいの国王にあたります。

天照大神が初めて女王となったのは、高天原、すなわち、八次元如来界から天御中主命の神示が下ったからです。

「我が国を、美しく、麗しき国となすために、女性に統治させるときがきた。伊邪那岐命という高徳の人がおられるから捜し出せ。その娘が、我が国を取り仕切る方である」と命令されました。

このように、神代の時代は、天上界からの神示を受けて、次期政権担当者が選ばれたのです。

しかも、国王の地位も終身制ではなく、その人の心に邪神や欲心が出てきた場合には、天上界から神示が下って交代させられました。

祭政一致とよく言いますが、当時は、霊能者の数も多く、また、人々から大変な尊敬を受けていたのです。

普通は、最高の霊能者が統治者となり、神示を仰ぎつつ、国政を取り仕切っておりました。



さて、天照大神は、決して王族ではなく、一豪族、伊邪那岐命の娘だったにすぎませんが、神示によって、女王に迎え入れられます。

彼女は、非常に気品のあるおおらかな女性で、物腰もやわらかで、それでいて、人々を畏怖させるような神々しい威厳がありました。

在位は二十年ぐらいでしたが、その間、国威は上がり、朝貢して来る人が跡を絶たなかったようです。

その弟の須佐之男命は、先述したように、姉と対照的で、たいへん荒々しい武人でした。

政治的には姉と意見が合わず、彼女をよく困らせたりもしました。



この頃、天照大神は、須佐之男命の乱行の鎮まりを祈願して、天之岩戸に隠れていたのですが、このとき、八十日ぶりに岩戸から出て、弟といったんは和解しております。

しかし、やがて、須佐之男命は新羅(朝鮮)まで遠征し、これを機に、高千穂国から追放されるのです。

初めての女王として、天照大神のように霊格の高い女性が出て来たことは、我が国の国民性に少なからず影響を与えたようです。

とくに天照大神の女性らしいおおらかさ、繊細さ、穏やかさ、優雅さ、美しさなどの特質は、後々まで、大和心として伝わってゆきます。



卑弥呼が九州に生まれた頃は、西洋では、イエスが亡くなり、弟子たちも亡くなり、その後、原始キリスト教会がようやく盛んになってきた時代です。

すなわち、紀元二〇〇年を少し過ぎた頃です。

卑弥呼の時代には、天照大神の高千穂国は弱小国になっておりました。

そして、九州の阿蘇が見える有明海に臨む地域に、中国の歴史では邪馬台国と呼ばれている国、当時、我が国では大和国(やまとのくに)といわれていた一大勢力があって、九州三十余国を制圧していたのです。

この大和国は、後に、大和朝廷へと発展してゆきます。

卑弥呼は当て字で、ほんとうは日向(ひむか)と呼ばれていました。

卑弥呼は、やはり優れた霊能者であり、天上界の天照大神から神示を受けて政(祭)を執り行っておりました。

ですから、当時の大和国の主宰神だったのは、実際には、七、八百年前に出ていた天照大神なのです。

卑弥呼の政治の特徴は三点ありました。

一番目は、毎週一回、神降ろしをして、国政の判断をしたこと、

二番目は、女性を数多く政治にも登用したこと、

三番目には、春と秋には祭をやり始めたことです。

当時は、血統ということが重んじられていたので、血族結婚も多く、卑弥呼の事実上の夫は、彼女の弟でした。

やがてこの系統から大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしひこおしろわけのみこと)(景行天皇)が出、その皇子が日本武尊(やまとたけるのみこと)であり、妻が弟橘媛(おとたちばなひめ)です。

だいたい、三世紀の終わり頃から四世紀の初めにかけてのことで、この頃、九州の朝廷が東征して、現在の奈良地域を中心として、大和朝廷を築きました。

初代の天皇とされる神武天皇(神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと))は、東征の英雄モデルがあったにせよ、現在、学問的には実在が疑われています。(注)

須佐之男命と日本武尊の英雄伝説が神武伝説形成にかなり影響していると思われます。

日本武尊は、如来界の方で、国づくりの高級霊の一柱でした。

過去世には、中国で漢王朝成立の立役者、韓信(前三世紀-同二世紀)、明治期の日本には、陸軍大将、元帥、山県有朋(一八三八年-一九二二年)として生まれました。
 
 
(大川隆法『黄金の法』「太陽の昇る国」より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE%E6%B3%95 ウィキペディア
(注)九州から畿内へと東征した神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)は実在の人物であるが、神武天皇としては即位していない。西郷隆盛の過去世でもある(西郷隆盛の霊言より)


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2010.12.05 / Top↑
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