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ナチスに支配されたチェコが舞台ですが
この類の映画に良くあるパターンの重苦しさからは
少々違った側面から描かれた映画のようです。
収容所から脱走したユダヤ人ダヴィドが、
かつて仕事で関わりのあった夫婦ヨゼフとマリエにかくまわれる。
厳しい情勢と、シェルター暮らし
日常の暮らしを舞台に、ナチ側であろうとなかろうと、
どんな立場におかれる人にも一握りの良心が見え隠れする。
選択の余地がない時代背景の中で、現実逃避をにおわせながら
持ちえた善なる心根が、人との絆を深め、心を溶かしあう。
人間の行為の、愚かさとやさしさを同時に描いています。
ヨゼフ、マリエ、ダヴィド、それぞれの名前から何をか想像せん
そう、この映画の背景には聖書を絡めてあって
映画の原題「私たちは共に助けあわねば」は、
マルコ伝「手を携えよ、さもなくば滅びん」からきていると、
どこかのレビューで読みました。
ラストシーンを見ると、原題よりも
「この素晴らしき世界」のほうがしっくりします。
希望の時代の到来と、新しい命の誕生。
戦争の残した「廃墟」の中をベビーカーを押しながら歩くヨゼフの心は
キラキラと、命の喜びにあふれているようでした。
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2005.10.24 / Top↑
少々バタ臭い第一印象をうけるヒロインは、やや妖(怪)しい。
厚化粧は身づくろいのうち、お洒落な衣服と同じ感覚、
素顔は裸同然と言いながら、暇さえあれば手鏡相手に化粧を整えていたりする。
香水ぷんぷん匂わせて、ちょっといやらしいタイプかも、なんて。
ところが実際はそうでもないのです。
お洒落は職業病なだけで、本当は素顔美人。
ジャン・レノ扮するシェフも、素顔美人も惨めな者同士。

内容的に甘ったるさはなくて、心地よい甘酸っぱさはあって、
じれったくもあり、互いに惨めな現実から逃れようと積極的で、
互いに行くべき目的地は別のところにあったりする。
行きずりのまま、ドライな関係で終わったかにみえるのだけど
二人とも心のうずきに気持ちよいほど素直でいられたので
ハッピーエンドになるための”もつれ”は程よい加減で
さわやかなエンディングを迎えられたそんな映画。

女性はしがらみのある男性から逃れたいと思い
男性は過去の女性に未練たらしい感情を持つ。
これは永遠の真理なのでしょうか。
そんな二人の恋物語でした。

まだまだ、こういった映画に感情移入が出来る自分がうれしい。
老いて死にゆかんとするタイプの映画がお好みにもかかわらずですから。
2005.10.24 / Top↑
音楽も、静かできれいな映画だったなぁ。
内容は、運命に翻弄される、一人暮らしの資産家青年の話。
自分とかかわりを持つ人間は、皆死んでゆく、
子供の頃から、周りの人間に死神と呼ばれてきた青年が迎える結末は・・・

月の引力が潮の満ち干に関係していると知ったのが12歳の時。
夜を照らすあの月が、大海をも動かす神秘の力をもっているのなら
自分の運命だって変えられるはず。
それからというもの毎晩のように狼男を思い、月を仰ぐ。
月のパワーを授けられたかった、運命を切り替えたかった。
それでも悲しい出来事が起こり続ける・・・・
定めなどと言うものは自分で切り開かない限り、どうしようもない。
誰かがどうしてあげられようか。
しかし、彼を助けてあげられる人はやっぱりいるのだ。
それが愛の力。愛の力に勝るものはなし・・
愛の泉はこの世界からいなくなってしまったけれど、
愛の形跡は、命を絶とうとした彼の心に届くのであります・・・
2005.10.24 / Top↑
女性の上っ面しか見ないブ男(と言う設定)が
催眠術によって、人の内面の美しさを表面化する目を与えられ、
巨漢の女性がスレンダーな美人に見えて恋をする、そういう映画でした。
催眠術を解かれて、事実に直面してからが見せ場であったわけですが
ある意味、これは誰もが先々に経験するであろう、
霊界の仕組みそのもので、心が鏡に映る世界観でした。
じゃぁ、私が今鏡に映されたら、美人になるのか、ブスのままか、
そんなことをつい、考えてしまいました。
2005.10.23 / Top↑
確か、アイスランドの自然の美しさと、いうコメントに惹かれて借りたんだと思う。せりふの少ない地味な映画だったけれど、エンディングでは涙が止まらなかった。老いて、故郷へつのらせる想いと、死にゆかんとする者の静けさをかみ締めてひたひたと涙したのだ。
地球の果てには、創造を絶する大自然の美しさと、そこに生き物の気配が共存する。最果てまでも、限りなく美しい地球。私たちの住まう星。どうせ住まうなら、星がこぼれて落ちそうな土地に住みたい。一度目は何気に観たオープニングのシーンを再度観直して、声を詰まらせて泣いてしまった。
2005.10.23 / Top↑
時代の香りが心地良くて、それか監督の香りかもしれないけど、映画の中へタイムトラベルしているようで面白い。相当に、精神的に飛んでるふうにみえる男女が、人の命を単なるものように軽々しく扱う。そんな二人の精神構造に興味があるというだけで、観続けたわけですが、ストーリーが繋がっているようで、繋がっていないようで場面がどんどん展開していって、それでやっぱり空気の色、香り、色彩や描写が不思議に心地よい、そのうち、飛んだ男女にも精神的なところが見えてきたりして、少し理解してみようかと考えるに至ります。観ているわたしも、精神構造を組み立て直さなければついてゆけないのですが、それなりにそんな自分を楽しみつつ、そしてそれこそが映画鑑賞の醍醐味と言うべきか。ラストシーンでは男が相棒の女を殺めてしまうのですが、そこには深い苦悩があるはずなのに淡々と淡々と展開、そして女も死を迎えようとしながら、死への恐怖心なんか感じない。「生死」というものが、まるで違ったもののように描かれている。ちょうど人間が虫けらを扱うが如くに軽々しいタッチで。そして、一人になった男は、顔に青いペンキをベッタリと塗り、ダイナマイトをその顔にぐるぐるに巻きつけて、自分で火をつける。命なんぞ始まりから終わりまで、なかったのじゃないかと思わせる。だけどその瞬間、あがくように引火した線を消そうとする・・爆発。燃える炎と煙が取り残されたあとの静寂と、ぬけるような空と、青い海のなかに、時間は消えて永遠がみえる。個々の人間の生き様は、永遠のなかで消えてなくなる。難解なストーリーは、ラストシーンですべてを包み込んでくれました。
2005.10.23 / Top↑
けっして静かでもないストーリーで、
フランス社会の影でもないの?の部分をシリアスにコミカルに、
それぞれの立場の人間の縮小図のように描写していたけど、
ワンシーンのセリフ「人生は長く静かな河のようにはならない」
その一言が逆に、長く静かな河の流れの中の、
ほんのワンシーンなのだよと言ってるよう。
2005.10.23 / Top↑
大和の国は始まりの時より、歴史の興隆を繰り返してきました。
大きな山小さな山、中くらいの山々が連なって大和魂を育んできました。そしてひとつの大きな山として、ラストサムライを描いた背景の時代がありました。
歴史とはその時々の選択の連続であり、何が正か負は、そのときには推し量ることは難しい。維新改革の時代も、取り残されていく側にも、新しく興される側にも正しさがありました。後の時代から振り返って、初めて意味が見えてくるものもあるのです。確かなことは、大きな山と見える時代とは、優れた人材の宝庫の時代であること。そこかしこに、どの立場にも、眩く、光り輝く人材が群れをなしていた時代。そんなことを改めて見せてくれたラストサムライでした。映画ですから、脚色もあり、サムライ側に一人のクセモノもいない完璧さには、一言ものも申したくなりましたが、少なくとも真髄は捉えていました。それに近い偉人たちが史実に確かにいました。

今の時代は、不安材料で満ちています。
何か大切なものを取り残してきたような・・・
しかしこんな時代だからこそ、必ずどこかから、光り輝く群れとして
起き上がってくるか、すでに起き上がっていると信じたい。
そして時が経ち、未来からこの21世紀を振り返ったときに
歴史に残る人材で溢れ、大きな山の時代であったと言われたら
どれほど素晴らしいでしょうか。
小泉総理やブッシュ、金正日に、フセインなど
どんな位置付けで未来の歴史書に記されるのだろうかと思いを馳せたら
今現在を見る目もまた面白い。
2005.10.23 / Top↑
性同一性障害の人の実話。
映画では、病気のニュアンスで語られてましたけど、肉体と魂の性別は必ずしも同一でなければならないとは思わないし、心=魂だと思っているので病気だとも思いませんね。しかるべくしてそうなるっていうか、まぁ転生輪廻説ではそうなりますね。男性の魂が女性に生まれ変わるなんて珍しくもないだろうし、それでもそれらしく性別らしさのバランスを保って生まれるんだろうとは思う。ごくまれに、バランスを違えて生まれるのか、あえてそう選んでくるのか・・・定かではありませんが。
だからそういう人たちは、肉体と違う性で生きるのがごく自然なんですよ。ただ、世間の目は厳しいですからね、つらいね~~~。彼(彼女?)を取り巻く一部の人間のとった行為は割り切れないし、若いみそらで終止符を打たざるを得なかった彼女が、あちらにもって帰ったものは、いったいどれだけのものだったんだろう・・想像はしてもし尽くせない、その立場を生きた人間にしかわからない。だけどもその一端なりを垣間見せてくれる映画がありがたいじゃないですか。この主人公は最悪の終焉でありました(この世的に)なんとも後味の重たい映画でしたね。
2005.10.23 / Top↑
車の陸送の仕事をしている元カーレーサーの主人公がヤク(薬)を求め、その代金をめぐって知人である売人と賭けをする。制限時間内に車を目的地に届けられれば代金をタダに、間に合わねば倍にして支払おう。そんな単純な物語の始まりから、警察とのカーチェイスが始まるというシナリオだ。
デンバーからシスコまでの長距離をカーチェイスしながら、あまりの無謀さに時の人となった主人公。ラジオのディスクジョッキーを媒介として注目を一身に集める。応援する側と、何が何でも処罰したい勢力と、それから単なる野次馬連中と。

社会の善悪の価値基準で計れば、許されるはずのないものかもしれないが、許せるのだ。彼を捕える虚無感の内にある善が容易く見て取れるから。だから無謀な行動のなかに、叶わない夢や希望を託して着地点までの無事を祈る人たちがいる。主人公には結局生きることに執着がなかったのかも知れない。カリフォルニア州に入ったところで、警察側のネズミ捕り作戦に、まるであっけらかんと命の終わりを選んだ。なぜ?いいの?目的地はもう少し先だよ、これまで何のためのカーチェイスだったのよ、 そんなエンディングだ。意味など最初からなかったのだといわんばかりだ。

2005.10.23 / Top↑
なんだか、人に触れるとその人の過去から未来が手にとるようにビジョンで現れる、不思議な力が突然に備わった人の物語だが、なるほどぉ後のグリーン・マイルへと繋がる。
デッド・ゾーンとは、人とは違う能力を発揮する意味かと想像したが実は、予知能力は、知ったときに未来の流れを変えられる(はたまたバック・トウ・ザ・フューチャーみたい)未来のビジョンに見える、不確定な部分のことをデッド・ゾーンと題しているらしい。
2005.10.23 / Top↑
「オール・ザット・ジャズ」はブロードウェイ・ミュージカルのベテラン振り付け兼演出家の生きざまを、自身が監督となって描いたもの。ダンスものはたいがい、それだけでも見ごたえがあるものだけど、これも例に漏れるものではありません。凡庸に生きられずに、何かに追われるように、酒とタバコとオンナとドラッグに溺れながら、ただ、演出への情熱と己の快楽のみ、体は徐々に蝕まれてゆく。

命を粗末にはするものの、やはり死は恐怖だ。エリザベス・キューブラーの死の過程にたとえ、映画は男の心の移っていくさまを五段階(拒否、怒り、取引、意気消沈、容認)に描き出す。死が間近にあって、やっと自らを振り返るのが人の常。死の床にあって、心の中に描くダンスショー。かつての恋人への悔い改めと、愛しい人を思う切なさや、娘への心残りを・・・・現実とは違うのだけれど、現実であってほしい。ダンスに込めて表現される彼女たち自身の心は偽りのないもの、あくまで思いの世界だけれど、それはきっとお互いに響きあうだろう、と思いたい。

バイバイ人生、バイバイ幸福、ハロー孤独と歌う、それが自らに残したメッセージ。すべての力を出し切ったダンスショーは大成功し、賞賛されたかのよう。心の中に描いたダンスショーを終えて、思い残すものは何もなく、湯上りのように洗われた穏やかな目。(しかしアップにされた表情は、観かたによってどのようにでも捉えられる、無に近いもの。)それから影のように光を落とした天使(死神)の懐へと抱かれてゆく死の瞬間。

この監督、今でも健在らしいですね。
知らなかったのですけど、アメリカでは人が病院で死ぬとビニールカバーで覆い顔をファスナーで閉じるのですか・・・・・
白い布で覆うわけではないんですね。
2005.10.23 / Top↑
なんか若気の至りって言うか、勉学心に燃えてるって言うか、興味本位って言うか・・医学生たちが医学的な手段で臨死体験をするというストーリーです。この前読んだなんだっけ?少し似ていた。赴いた先がちょい災難畑なところも。実際のところは普通の人は知らないし、私も往ったことないもの。お勉強はしているよ!で、この映画の場合は、体験した人はみんな、潜在意識の中に眠っていた過去の過ち、トラウマの部分をあっちに往って体験している。で、ある意味霊的になって蘇生して、幻想なのか現実なのか、すごくリアルに実体験としてトラウマを見て恐怖心にやられちゃうんですねぇ。それをどうやって問題解決とするか。一番男前のデーヴィッド。彼は子供の頃に執拗にいじめた黒人の女の子がフラッシュバックしてきたわけだけど、彼女を探し当てて、心から謝罪したのですねぇ。そして彼女も、心から許した。ふむーーなかなか理想的な解決方法。あと、良く分からずに終わってしまった、エロイバージョンの男。こじつけるとするなら、本命の彼女が去ってしまったことでしょうか。自業自得。まぁこれも適っている解決方法ってことにしとく?ジュリア・ロバーツ扮する彼女の場合はトラウマの向こうを勇気を持って見たことで相手と心を通わせることが出来た。まぁ相手は自分の父親だから、心から愛し合えたってことですかね。立ち向かう「勇気」これですかね。最後の一人が曲者でしたねぇ・・・・

まあ、あれですね、この手の映画はどこまでが真理が含まれて
どこまでがフィクションかを見極めるのが大事でしょうかねぇ。
最終的には神の領域にまで踏み込んだことを後悔してましたから
それが真理ってことでしょう、現段階では。ふむ。
2005.10.23 / Top↑
夜観ると寝てしまうと思って、まだ明るいうちから構えて観始めたら な~んか観た覚えがあるなぁ、それもここ最近・・・? オープニングの車内羽交い絞めシーンや、父親との幻想シーン。 愛人も記憶に新しいし、妻も、乞食の豊満なおばさんのルンバも。 ぶどう酒風呂シーンも、どれもこれも。 だけど後半三分の一は観てないのはなぜ? そうねぇ、やっぱり寝てしまって、期限切れでそのまま返却してしまったのでしょう。 映画のタイトルも覚えるの苦手だからね。(言い訳) そんなわけで、夕べ深夜放送を録画していました。 この映画は前半に、特に夢想が多くて一見難解だけど、 そこは二度目と言うことで難なくクリアー。 中盤からは吸い込まれるように観てしまいました。

さて、マルチェロ・マストロヤンニ扮する売れっ子監督(フェリーニ自身を描いている)の創作活動における、生みの苦しみを描いている。タイトルはこの作品を創る以前に8本の長編映画と、1本の短編映画 を製作したところから付けたらしい。苦悩するこころの流れていくさま、足らないもの埋めようとするそれぞれ。 監督自身は当然ながら、特に女性の描き方が面白い。 さまざまなモデルで。まぁ華やかですねぇ。 とうとう土壇場に追いやられても、作品として表現すべき形は見えてこない。 製作発表会場に集まった、怒涛の人ごみから逃げまとい、自己からも逃避、幻想の中で自殺をしてしまう。 結局、映画のセットのために多額の債務を負いながら、映画制作をお流れにしてしまった。 攻め立てられているうちは、混乱に襲われてそこから抜けられなくて苦しむけれど
すべてから開放されて、自らを振り返る余裕が出来たとき 、混乱は僕自身の反映なのだと気づき、混乱こそ受け入れるべきものであり 、人生はお祭り騒ぎのようなものだと達観する。 人間は、見えなかったものが、見えてくるということが何にもまして幸福なんですね。 クライマックスはフェリーニ監督らしく、特異なシーンが展開します。 出演者全員がお手手繋いで輪になって。 まさにお祭り騒ぎだけど、監督の晴れ渡るような喜びがひしひしと伝わってきて、 私自身も場面の中に吸い込まれるように 血湧き、肉踊る感動のクライマックスでございました、はい。

付け足すとすれば、ハーレムの幻想シーンでの妻の描き方が面白かった。ほかの女性は、映画界を象徴するような華やかさと、持ち前のキャラのまま。ところが妻だけは、がらりと様相を変え、妻の立場を演じつつも、雑用係のようで飾り気なしの作業着姿。だけど、そんな立場に満足している。監督の意図が何とするのか、それは想像の域を超えないけれど、心の片隅に、そのような女性像に寄りかかりたい、つまり、すべてを包んでくれる懐の大きな母にも似た安らかな存在。極端ない言い方をすると、聖母マリアのような存在、それを妻に求めた。事実上の妻、ジュリエッタ・マシーナに置き換えても想像はたやすい。そんなところから私なりのフェリーニの人物像をみてしまうのだ。

まだ、白黒映画でした。
この次の作品「魂のジュリエッタ」からカラーでしたっけ?
ジュリエッタ役はもちろんジュリエッタ・マシーナ。
それからこれは余談だけど、かのドノヴァンのフェイバリットな映画と言うのがこれ「魂のジュリエッタ」らしい。
2005.10.23 / Top↑
二つの物語が同時進行していく。
一つは、映画の中で映画を撮影していて、
その撮影されている映画自体が、完結した映画として存在している。
そして二つ目が、撮影の外側の現実の主役の二人。

撮影されている側のストーリーは、鬱病とも噂される女性サラの
非現実とも見える、男性に対する愛情への飢えが、
やがて一人の男性との出会いをきっかけに、
現実のものへと変化してゆき、心を癒してゆくが、
彼女の選択は悲しくも相手を非情のなかへ追い込む。
そんな中で、彼女は自己を探り、自分の力で生きる道を選ぶ。
そのなかの非現実の男性と呼ばれるのが、フランス軍中尉だ。

現実の二人は、お互いに伴侶のある身ながら
ロケを通して密会し、愛情を確かめ合う。
見方では、単なる不倫の物語だけど
劇中劇のシナリオを書いたのも、主役の男性で
自分を投影した作品なのだ。
最後にアンナ(現実の訳名)が去ろうとしたとき、サラ!!と叫んだ。
二つの物語が一つになった瞬間。

魂の深くから蘇る絆を探るかのような二人なのだ。
二つのストーリーが同じ色をして、
同じ輝きに満ち、同じ悲しみをたたえる。
違う世界を描いているようで、そこに流れているのは一本の糸のよう。
二つの存在が、二通りの選択をしてゆくなかで
図らずも同じ運命を辿るかのように
二つのストーリーは、一つのストーリーなのだ。
ささやかなやすらぎは、エンディングに二度くりかえされたシーン。
入り江から船で漕ぎ出しすそのビジョンは、
何ものも犯しがたい、魂の静けさ。
空気も、時間も止まって・・
現実の結末と、そこに、もう一つの結末を見ることができる。
2005.10.22 / Top↑
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