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「アリスの恋」で、ダニエルが流れていた。それから、少年のような少女が登場する場面があって、何となく誰だかを想像はしたけれど、まさか。ところがなんとも思ったとおりにジョディ・フォスターだったのだ。「タクシー・ドライバー」よりも古い「アリスの恋」なんだとそこのところで理解。1974年の映画なのかー。いい時代だったなぁ、私。ダニエルは当時聴いたんだから、映画では旬の曲を取り上げていたわけか。。あの頃はエルトンがオカマだなんて想像もしなかったし、今のように肥満していなかった。昔はヴァン・モリソンだってあんなスタイルになろうとは想像もしていない。ジャケットは男前だし、全身が写っている「テュペロ・ハニー」も元妻とのツーショットは非常に美しかったんだ。あれからうんじゅう年経ったのか・・早い、かのドノヴァンでさえも、福々しい時期もあったんだから、私にあろうとなかろうと誰も文句を言えない。年齢の経過=お肉の盛り、下がりなのか。。アリスは夫との死別をきっかけに、子育てをしながら女の自立を模索する映画だけど、天照から始まった大和撫子がもっている絶対的権限が、アメリカの女性には与えられていないことを知ったところだったので(今はどうだろう、彼女たちの国では財布を握らせてもらえないとか、うちは100%握って離さないけど)かの本が書かれた時代とどっこいの製作の、アリスにみるシチュエーションも迫るものがあった。大晦日までに返却せねばならないもう一本、「悲しみよ、こんにちわ」こりゃまた古い映画だわいなぁ。いま劇場へ出向いても、何を観たらいいのかさっぱり分からないオンチなんだから仕方がない。ささ、今日は冬休み課題その一、日田の風景でも描くかな。
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2005.12.30 / Top↑
記事丸ごと消去。
どうでもいいことなら最初から書くなよ。
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安産型で、へちゃ丸顔、だんだん飼い主に似てくる。
2005.12.29 / Top↑
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意味さっぱり分からなくてもお気に入りの一曲で
気になって仕方がない一曲でもありました、
はちゃめちゃに難しかしくて、苦労に苦労を重ねました。
私の内蔵翻訳機はしょっちゅう不具合を起こすのにもってきて
都合の悪いところは、徹底的にごまかす我ままぶり。
いずれは正式に訳詩が発表される予定なので、
それまでこれで間に合わせます。(いい加減な創作)
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最新バース観光案内

レディス&ジェントルマン!
優しくて気取らない、たくさんの方々のために、格好の地がございますよ、気晴らしにお出かけになられてはいかがでしょうか?りっぱな球技場がありますし、多くのコンサートが開催されますよ。そしてすばらしい建築物が建ち並び、温泉源が豊富で、さらに心地よい散歩に素晴らしい景色にそのほかにも数多くの素晴らしさに恵まれております。なんとも魅力的な土地でありましょうか。空も…言うに及びませんでしたね。まるで母のごとく温かさに満ちたバースが、なにものに変えられるとお思いですか?いやはや。
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2005.12.28 / Top↑
なんとも公開しそびれていた「下書き」が哀れに思い
ここにもってきて、成仏させてあげます。
公開することの意味を見出せないのが、つらいところ。
まぁそのぉぉぉつまり昇天ですよ(ラオウ調)
え、あんたも早く昇天しちまいなって?



土地は美しく、林は清らかで、さわやかな風が渡り、
流れは澄んでおりました。
山の中に篭って、木の実や草の根を食べながら
悟りを開こうとなさっておられたゴータマは、
ある日のこと、山里に下りて川で沐浴をしておりましたが
体は、川の流れに押し流されそうになるほど、
苦行でやせ細っておりました。
そんなゴータマの目に、耳に、川向こうから、
村娘の口ずさむ歌声が聞こえて来たのであります。

それは昔からインドに伝わる民謡の一つでした。

琵琶の弦は、強く締めれば切れてしまう。
弱く締めれば音色が悪い。
琵琶の弦は、中ほどに締めると音色がよい。
弦に合せて、踊れや踊れ。
弦に合せて、踊ろや踊ろ。


まるで天女のように、村娘の美しい目の輝き、
亜麻色の髪、生命力に溢れた身体。
全身から素晴らしいかおりが漂っておりました。
それに引き比べ、ゴータマは骨と皮ばかりであり、目は落ちくぼみ、
あばらは浮き出し、誰が見てもいつ死んでも
おかしくない肉体でありました。
その娘はゴータマの哀れな姿を見ると駆け寄ってきて、
ひと椀のミルク粥を差し出します。


「修行をすることが、骸骨のような肉体となり、
この地上の命を絶ってしまうということならば
それはいったい、いかほどの美を含んでいるのか。
いかほどの値打ちを含んでいるのか、
このスジャータという娘は、何の悟りも得ていないであろう。
法を学んだこともないだろう。
そのスジャータが、なぜ、これほど光り輝いているのか。
まるで、天から来たもののように輝いているではないか」

結局、王子として暮らし、何もかも与えられた贅沢の中に悟りはなく
洞窟に篭って、食べるものも食べず、
やせ細って苦行をするなかにも悟りはない。

ゴータマは村娘スジャータと、彼女の口ずさむ歌から
多くの気づきを得、その後の修行スタイルを改められたのでした。
(托鉢を生活の糧として、修行をするようになりました)
2005.12.21 / Top↑
イザナギが黄泉の国から帰って、穢れを祓うために禊ぎをし、左目を洗った時に産まれた天照大神、それから鼻を洗った時に産まれた須佐之男命。天岩戸に篭った天照大神が、須佐之男命と、争いの後に天安河で仲直りをしたとき、二人はお互いの持ち物を交換して、そのものから子供を作られた。天照は須佐之男命の剣をもらって3人の女神を、須佐之男命は天照の左の髪につけていた宝玉をもらい、5人の男神を作られた。けれど、互いの持ち物から作ったがゆえに、3人の女神は須佐之男命の子として、5人の男神は天照の子とされた。このとき須佐之男命は「私の心は清く正しいので、私は手弱女(たわやめ、女の子)を得ました。この結果を見ると私の勝ちです」と言ったそうです。

西洋では右が「正」で左は「凶」(シナでも同じようなものだとか)英語のレフトは「力は弱い」と言う語源で、ドイツ語の「リンク」も同じ語源的意味。ところが日本神話と宗教の種類が酷似しているという、ゲルマン神話の古いドイツ語では、この「左」に、「幸運なる」「吉」の意味が含まれると言う。「弱い」と言う意味の単語が「吉」は奇妙だけれど、日本もまさしく同じで、日本では左大臣が、右大臣よりも位が上だ。素直に読めば左→弱→女という系列がよいので、右→強い→男の系列はよくないということになる。それが不思議でよく判らないところ、右手は強く、武器を使い、人を殺す時に使うから凶で、天下泰平で武力を用いる必要がなく、神の祀りをやる時は左でよい。その平和の象徴として女神の生まれたほうが勝ちということ。そこから見えてくるものは、日本が元来争いごとを好まない国なのだということ。高天原を支配しているのも左目から産まれた女性神の天照大神であるし、このような伝統があったからこそ、古来から女性の地位が高く、世界史に類を見ない女性文学が、平安朝に咲き出る要因となったのだろう、と書かれてある。
なかなか、読んで初めて知ったことばかりで、私はやっぱり古事記は知らなかったのだなぁ。
2005.12.17 / Top↑
第一子(国)を産み落として産褥で死んでしまった、愛する妻のイザナミに、悲しすぎるじゃないか、まだ日本列島は創り終えていない。これから第二子第三子を産み、国づくりを完成せねばなるまいのにと、黄泉の国まで追いかけていったイザナギに、あらうれしや、それではこちらのそれなりの立場の方に現世に還る方法を相談してまいりますので、少しばかりお待ちくださいませ。何があろうとも、のぞいてはなりませぬぞ、どうぞお約束してください。そう言われたのに、イザナギはあまりの遅さにしびれを切らし、イザナミの棺を収めている部屋に侵入してしまう。そこでイザナギは棺を覗き、見てはならないものを見てしまう。(蛆虫とかさ)あな、恐ろしや、これが愛しき妻の果ての姿なのかとすっ飛んで逃げ帰ってしまい、イザナミを怒り猛らせることになりました。そこで、イザナミは逃げるイザナギを追ったのですよ。逃げながらイザナギは、千人もの人の力を必要とするほどの大石を平坂へ横たえ塞いでしまった。その石を真ん中に向かい合って立った二人は、睨みながら絶縁宣言をしあうことになりました。「このようにしてあなたと縁を切られるのならば、あなたの国の民を一日に1000人ずつ首を絞めて殺しましょう」とイザナミ、これにたいしてイザナギは「あなたが一日に1000人を殺すのならば私は一日に1500人ずつ産みましょう」こうして、一日に1000人死に、1500人産まれることが決まったそうです。一度は黄泉の国から、愛する人のもと、現世に帰ろうとしたのに、結末はひどい争いで絶縁になってしまった。
これが「見てはいけない女性」を「見てしまった」ことによる初代禁忌であります。

えーと・・・私はこの神話から、梅の効用を再確認して毎食、身体に良いんだぞっと思いながら、はちみつ梅をいただいております。はちみつと言えば・・・・テューペロはちみつについてはいずれの日にか。
2005.12.15 / Top↑
知らぬは妾(わたし)ばかり成り?
古事記では、私を妾と記述されているらしい。
漢字が漢字らしく意味を持つようになったのは時代が経ってからで、
古事記の時代は当て字、あてずっぽかったということを知りました。
アンカで思い出しましたが
夫婦別室か、ダブルベッドか(別にベッドでなくてもよいけど)
これは仲良しか、不仲か、そんな問題ではないらしい。
どうも、洋の東西を問わず、昔から裕福な暮らし、
上流階級においては別室が当たり前で、
貧しくて部屋数のない下流階級層が相室だって言うじゃないですか
(妙に納得)
わが大和の国でもおえらい殿さまだとか、それなりの階級の人は、
本妻、第二妻、第三妻、妾、その次の妾とかね、
みんな個別に寝室があって、情事には通ってたらしい。
それで、心情はどうあろうとも、朝まで居残ることは出来なくて
情事が終われば、さっさと自室に戻らねばならない。
淑女の化粧室だから、スッピンを見せることはタブーなんですよ。
とにかく女のプライバシーを見せてはいけないし、
見てはいけないらしい。
ところが見たがるのが男ですってね、こんなタブーがうまれた日本の源、
古事記の中の記述興味ないですか?
2005.12.14 / Top↑
古事記と日本人―神話から読みとく日本人のメンタリティ (NON SELECT)古事記と日本人―神話から読みとく日本人のメンタリティ (NON SELECT)
(2004/10)
渡部 昇一

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古事記の続きです。
これも日本人のメンタリティーを解く鍵の一つなのだろうか。
読む人が面白ければそれでよいと思います(笑)
しかしなぁ、私は愚識者だから初めて知りました。
「ガリバー旅行記」の著者ジョナサン・スウィフトの「淑女の化粧室」
こんな内容だそうです。

シーリアという女性は5時間もかけて化粧し、着飾って外出する。
そのあとで下男がその化粧室に忍び込んでみると、
まずひどく汚れたシミーズ、特にわきの下は真っ黒になっているのが目に付く。
櫛も歯の間には垢と埃がぎっしり詰まっている。
化粧台にはフケ、抜け毛、額のしわ伸ばし用の油だらけの目張り布
ワキガ止めの粉明礬、仔犬の小便を蒸留して作った美容液がある。
またその側には汚い容器があって、手洗いの残り水、
口をすすいだうがい水、唾やたんやヘドまで入ったままである。
垢や鼻汁がついて真っ黒になっているタオルやハンカチや
異臭を放つ靴下などが床の上に置き放しで、
さらに部屋の片隅の木箱の中には、大きな鍋みたいなものがあって
中にはなんとホカホカ、ポトリと落ちる例の・・・・もう書けません(笑)

このショッキングな体験の後、下男は美女を見れば悪臭を連想し
悪臭を嗅ぐと美女が側にいるような錯覚を起こすようになりました。

さらに著者は「うら若き住人、臥床に入る」という本でもこのように書き残している。
盛り場の華とも言うべき麗人コリナが夜が更けてから
アパートに帰ったシーンから始まる。
まず、スツールにぐったり座ると、大きなかもじを取り
ガラスの義眼を取り、つけまつげを取り、頬を膨らませていた詰め綿を取り
総入歯を取り、ぺちゃんこの乳房を膨らませていたボロ布を取り
鉄枠入りの胴着を取り、人造ヒップを取る。
そうして半裸になったら肢体はと言えば、
膿汁だらけの大吹き出物があって・・と続く。
とにかく女のプライバシーを見てはいけないことを例えるために
とどのつまり、そこからイザナミ、イザナギの話に戻るわけだけれど
こういう話が付録で付いてくるわけであります。
いやはや、恐ろしいですね、怖いですね。
よかった、これまでブスで、ほぼスッピンで。
寝顔も昼顔も同じだと便利ですね。
だけども皆さん、ここまでひどくなくても
多少なりとも心の痛みはありませんか?
2005.12.12 / Top↑
世間はそろそろクリスマスモードですか?
うちの子、家で誕生日を祝ってもらったことがないと言う。
そんなことはないと思うのよ。
毎年、イブにはケーキがあるもの。
やはりついで祝いは気持ち通じないのかな。
たんまり込めているのに・・・・え?
こんな季節は、やはりこれでしょう。
少しばかり前に、誤訳に挑戦。
直訳すら出来ない部分は教えてもらって、
それでも創作の域を超えられない私。
私さえよかったら上等よ。
この曲はドノヴァンと娘アストレラの掛け合いであります。
娘と一緒に恋ものは照れないの?
しっとりとロマンティックな曲を聴かせてあげたい。
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2005.12.09 / Top↑
ほぼ、限りなく100%、玄関を出て外階段をとんとんと下りていって
自転車をかちゃかちゃさせる頃になると、ぱんちゃんが4階のベランダのフェンスに登って「おかあさ~ん、おかあさ~ん」と呼ぶ。
で、返事をするまで呼び続ける。
だからいつでも、自転車をおいたまま、場所を移動して見上げ「ぱんちゃん何?」と声をかける、ついでにぱんちゃん行ってくるからね、じゃぁね、バイバイ。と声をかける。コミュニケーションをとれば納得して、それ以上は「おかあさん」とは呼ばない。
通りがかりの人は、このおばさんちょっとオカシイ・・・・と思っている。
家人に恥ずかしいから止めろ、とはいつも言われている。
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ぱんちゃん
2005.12.09 / Top↑
毛が飛ぶからそこにだけは陣取ったらだめ!
暖かいところを探すのに長けているのが猫なのか。
おまえはぁ、澄ましているな。
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2005.12.07 / Top↑
許しておくれなさいましぃ!
やることも休む休みです。
全然進んでいないご用事かな(笑)
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さて「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」であります。
観ました(笑)
人間は、もとなる完璧な存在から真っ二つに裂かれた、 片割れなのだ、という発想がどうもできるらしい。 その失われた片割れとは、自分とそっくりな個性なんだろうか、 自分に欠けているものを補う存在なのだろうか。
そしてその一対は男と男、女と女、男と女、の三種が想定されるらしい。 そして片割れになった人間が、さらに神様に抗えば 、さらに二つに裂かれ、片目片手、片足になって、ぴょんぴょん飛び跳ねるものとなる・・
かのソクラテスの弟子プラトンの「饗宴」に登場する、エロスの神話を盛り込んだ内容であった。 ここの所、なんとも、同性愛ものに接触する機会に満ちている気がしないでもない。 片割れと片割れとが一つのものとなったら、人はどうなるのだろう。イブが禁断の実を食べてしまう前の、楽園が蘇るのだろうか。 片割れ的な人間であるからこそ、自分の心にぽっかりと空いた穴を埋める何かを発見することに意味があるのではないか。 不完全だからこそ、完全を求めて人は前に進めるのではないのか。
対を捜し求めるヘドウィグが、エンディングで全裸になるシーンは美しい。 ヘビーなロック仕様のミュージカル映画でもある。 ヘドウィグ役のジョン・キャメロン・ミッチェルも、 最初ちょっと気持ち悪かったけれど、だんだんと美しく見えてくるから面白い。
もしも失われた片割れがいるのだとしたら、わたし的にはどのような存在を求めるのだろうかと考えると、なかなか興味深いではありませんか。 
たいがいこの手の映画は、性という切り口から入っていきながら、詰まることろ、性の縛りから解放しようとしているかのようだ。解放されて残るものは何か、そう問いかけている気がする。
だけれど、性は厳然とあり意味があり尊重すべきものだ。
今読んでいる、渡辺昇一の「古事記と日本人」では 、日本神道の神話と、西洋の神話との対比のなかから 、性の意味を浮かび上がらせようとしている。 面白いのは、アダムとイヴと、イザナギとイザナミの対比 、そこに聖母マリアを絡めての洞察が繰り広げられているのだ(笑)
神道と、キリスト教ユダヤ教回教あらゆる宗教との絡みと、更に、女性の性差別に対する権利を主張する運動なんかを絡めて、渡辺昇一流剣でばっさばっさと切って捨てる。
結構、結構、おもしろ可笑しく読んでおります。
2005.12.05 / Top↑
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目は口ほどに、もの言う。
言葉の何倍も、目は語りかける。
言葉なんて必要ないのかな、と思ってしまう。
潜在意識の中には、一人残らず
同性愛的な要素が含まれているに違いないと思ってしまうほど
彼らの目は豊かに訴える。
たかが映画、されど映画は、神の創造した芸術の側面を担っているのだ。
なんて流れていくのは、一連の誤訳の悪しき影響だろうか(笑)

なぜ、弟は兄イグナシオを殺したのだろう。
なぜ、弟は、オカマの兄の役を演じた
ラストシーンを撮り終えたあと、泣いたのだろう。
なぜ、普通の男(同性愛ではなく)として生きていたのに、
人生の途上で、兄と同じように生きねばならなかったのか。
穢れなき美しい少年だった兄は、なぜ、
屈折したその後の人生を生きなければならなかったのか。
神父にとって、神とは何なのか。

人間は願いを託して、幸福な道を歩むこともできるのに
どうして悲しみを選び、そして悲しみにに満ちているのだろう。
だけど、それも人間に与えられた自由と恵み。
いかなる人生を生きようとも
人間は人間であるだけで、恵みの中にある、そう思う。
2005.12.01 / Top↑
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