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三法印を切り出した手前
これで区切りとしなければ女が廃ります。とか何とかいいながら
結界◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



すべての時間的観点から見た場合に
すべてのものは流れ去っていくものである。
そして、空間的観点から見ても
すべてのものには、本来、我なるものはない。
自我なるものはない。
永遠に続いていくもの
自分自身が生み出していく力によって続いていくようなものは
何ひとつない。
現にあるものはすべて
それ自体で成り立っているものではない。
何かによってつくられたるものであり
また、必ず滅びていくことが確定しているものである。
それが、この世の存在である。
時間において無常、
また、空間において空。
そのような思想のなかで生きている我とは何であるか。
「我思う、ゆえに我あり」という思想もあるであろう。
しかしながら、そのような時間的、空間的観点において
何ひとつつかみどころのない
そのような縦と横の交わる交差点
その十字架のなかに立っている我とは、いったい何であろうか。
それを深く考えなくてはならない。

そうしてみると
実は、本来の自己なるものは
この肉体の中に宿って
特定の名前を持ち、特定の両親を持っている
あなた自身ではないはずである。
おそらくそうではない。
空間的にも時間的にも
一切が、つかみとることができない。
そのなかに生きている我のみを
ほんとうにつかみとることができるのだろうか。
そうではない。
その我というものも
実は、仏の永遠の時間と空間のなかで、仮に存在あらしめられ
その掌において、遙かに見えている存在である。
川に喩えるならば
その川のなかを流れていく泡沫
その泡にすぎない。
そう、いつか川の中から、水の中から生まれ
そして必ず消えていくことになっている泡沫の自分。
その自分が、その泡沫のごとき、泡のごとき自分が
「自分とはいったい何であるか」ということを考えている。
考え、考え、考え、考え抜いて
そして永遠の実相なるものをつかみとっていく――。
そこに涅槃寂静の境地が開けてくる。
すなわち、自分というものを通して
仏の本来の姿を、その意図を
その光なるものを見抜いていくこと。
そのためには
己というものを
限りなく、空しく空しくしていかねばならない。




霊界は大宇宙
この世は大宇宙の一部
そこに泡沫のように消えては生まれる無数の魂たち
善人も悪人とみえし者も、動物も植物も、鉱物も、
森羅万象等しく仏の愛の掌の中に生きている
世の中に、砂粒ひとつ無駄はなく
まして、仏の性質に真似て創られた人間はいわんや
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2009.11.01 / Top↑
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