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ちょっと前に足袋用ソックスで新鮮な履き心地を体験したと思ったら
今回は、5本指ソックスを旅行中のバス内の抽選で、
当てて、私用の土産と名うって持って帰って来た。
早速履き心地を確かめる・・斬新な履き心地、
指が指定位置に上手く入り込まないぞっと。
RIMG0937.jpg

谷口雅春先生、さすが光明思想家のいうことは迫力がありますね。
私は神の子仏の子、全知全能なんでもできる、
強い子良い子あらゆる面で無限に良い子だったかどうか忘れたけど
昔そういうテープを借りて聞いたことがあります。

光しかない!光一元だ。
悪と見えしものは心のゆがみが映し出した幻なんだ、迷いの心なんだ。
病気も然り。
病気など本来は存在しないんだ。
そう言い切る谷口先生の過ごされた高校が近所にございます(笑)
その先生のさらに”斬新”な切り口が面白すぎる。
ちょっと谷口先生の手持ちのテキストを抜粋してみるね。
長くなるかも。

誰がつくったか知らぬが、エデンの園の話により「アダムとイブが犯した原罪によって、人間は永遠にのろわれていく」という考え方がある。
 こういうものは、心理学的に言うなら、被害妄想の患者の考えることだ。「目に見えぬ神様がいて、人間を永遠に迫害している」という被害妄想の考え方である。原罪という考え方は被害妄想に過ぎない。
 「世の中を見れば、悪いことがいっぱいある。自分に不都合なことがいっぱいある。なぜ、こういうことがあるのか。それは人間が原罪を犯したからだ。大昔の人間が罪をつくったから、いまもこうして人間は苦しみ続けているのだ。そのために、私たちは、苦しまなければならないのだ。十字架にかからなければならないのだ」ということを考える。こういうのは被害妄想の患者である。
 またイエス・キリストが十字架にかかったことをもって「人類の罪をあがなうためにイエス・キリストが死んだ」と言っている。これはとんでもない被害妄想の患者の考えることだと思う。
 イエス・キリストが神の一人子であって、神の大切な子であるのならば、神は、これを生けにえにするわけはないのである。
 では生けにえにしたのは、だれか。イエス・キリストを十字架にかけたのは、だれか。
悟っていない地上の人間ではないか。真理を知らない人間ではないか。
 自分たちが救世主を十字架にかけておきながら「救世主は人類の罪をあがなうために十字架にかかられたのだ」と言っている。こういう者が錯誤も甚だしいと言えるのだ。
 神は最愛の子を地上に遣わしたならば、どうして、最愛の子を死刑にするような子供たちの罪を許すことになろうか。反対のはずだ。そうではないはずである。
 このような間違った考え方を持っている以上は、人間は永遠に救われることはないのである。
イエス・キリストを十字架にかけたのは、迷いの心であり、要するに、真実の神の子を包んだ「含み」、すなわち罪であったのだ。


含みという言葉が面白いね。
含みを外した中身が光そのもの、神の本質であり、
含みは二人以上の関係の中で芽生える心のゆがみ、摩擦であるのだとか。
光一元が絶対かどうかはさておいて、生長の家の万教帰一は賛成(笑)
それぞれの宗派の立場で見方は様々だけど、
どれが絶対とは言えない奥深さはあるのでしょうね。
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2005.11.14 / Top↑
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